2009年2月5日木曜日

日本語の「チベット」

今となっては、昨年、チベットで暴動が起こったことなど、忘れ去っている人も多い。
どことなく、チベットをネタにすることが陳腐化してきたような風潮も、無いではない。

しかし、私だけだろうか。
このところ、ちょくちょく「チベット」が、ものの形容に用いられるのを耳にする。
「秘境」「情報が入ってこない」などを喩える時が多い。
今朝は、浜村淳がラジオで「大阪のチベット…」と言いかけて、少し躊躇っていた。色んな方面の、色んなところに気を使って、浜村淳は躊躇ったのだろう。

「介護界のチベット」。数年前、ホームヘルパーの講習で、講師の先生が言っていた。
それは一体、どこのことだろう…と、推理して妄想を膨らませることができる。
他、連絡が途絶えて音信不通の、どこに行ったかわからない人など、「チベットに行っとるんとちがうか」「あいつはチベットか」。前職で、ちょっとトイレに行っている間に、上司にそんなことを言われている人がいた。
私が聞いた用いられ方は、割とそんなカンジ。

意外な形で、「チベット」が日本語の中に受け入れられている。
そうやってでも、「チベット」が日本語に馴染むのは、今の私にはさほど悪いこととは思えない。少なくとも、「チベット」が何なのか、知らない人々が、それを知るきっかけにはなるから。

そしてそんな日本語の中の「チベット」が死語になる時、本物のチベットはどんな運命を辿っているのだろう…、などと今朝は浜村淳のラジオを聞きながら、思っていた。

0 件のコメント: