2009年2月17日火曜日

「明るさ」の術を

「気持ちを明るく持つ」ということは、どうすることなのか、人に伝える時に、なかなか伝わらなくて苦労する。

私が人に伝えたい「明るさ」とは、ただ「いい方に物事を考える」とか、そんなことではない。
究極的にはそういうことであっても、何が「いい方」だか分からないぐらい落ち込んだ人が相手では、そんな言葉はあまり意味が無いし、逆効果になることがある。


言葉よりも、手段として。

私が思う「明るさ」とは、言うなれば「どん詰まりの暗闇でただ一人、空っぽの己から吹き上がる笑い」ということなのだが、この「笑う」を伝えるのが、また曲者で。
無理にカラ笑いをするのとも違う。
この笑いはあくまで、笑いたくなって「笑う」、衝動的なもの。

この「笑いの衝動」は、私は確かに、苦難と試練の中を生きるどの人の中にもあるはずだ、と「信じている」。「信じている」というのは、他人の内面はあくまでその人のもので、私のものではないから、「絶対ある」と確証できずに、「信じている」わけだ。

ここで「笑う」自分の中で萌芽するエネルギーがあることを感じ取ること、これが「明るい心」の源で、そしてこれが、痛みを感じる自分がある限りは絶えることのない、永遠の力の元なのだ、究極的には宇宙からの愛の贈り物なのだ、と漠然と理解すること。

この理解を何度か経験して、習慣に組み込まれると、かなり打たれ強い「ネアカ」体質に改善されていると思う。
底なしの「ネクラ」だった私が経てきた体験からの話である。


…ただ、科学的にいう「苦痛に耐えかねて脳内麻薬が分泌されて、苦痛が緩和された瞬間」のことを、私は今書いているんだと思う。しかし、そう言ってしまうと、自分の内面の劇的さが薄れるから、個人的には好きではない。
そしてこの先、鬱などの病気の話に至ると、私はその専門家ではないから、思うところはあっても、それ以上言うのはよろしくない。


また、私は就寝前に、よく瞑想をする。
瞑想というか、「自分という楽器」をチューニングしている感じ。
照明を落として、ただ座禅を組んで、目を薄っすら閉じて座っているのだが、この時、日々の雑多なことを、一旦自分の中から抜き去って、空っぽにしようという名目で、それを行う。

「空っぽにならなければ、新しいものは何も入ってこない」。

多分、小野田寛郎氏が何かのインタビューで仰っていた言葉がきっかけで、私はそんなことをしていると思う。
「何も無いんですよ」
と小野田さんの声が、今でも要所々々、私の中で繰り返し流れているから。

そして自分のテンションが下がり気味で、日々感謝の念が沸かないような気持ちの時は、額に光を貼り付けて、その光をじっと見ている。
この光は、太陽や電球ぐらい明るいと痛いので、額に「月が貼り付いている」と思って、その月を眺めている感じ。
また、テンションが上がりすぎて、頭に血が上っているような時は、額に「青」か「白」の色を貼り付けて、それをじっと見ている。
もちろん、この「見ている」は、あくまで薄っすら目を閉じた状態で、イメージを観想しているのである。

面倒臭い時は、ただゝゞ深い息(腹式)を十回ほどするのを味わうだけのこともある。

この一連の瞑想は、意味が無さそうで、根気よく日々続けていくと、かなり効果があったと思っている。
何より、内面の静まり返った平和な状態を味わう習慣は、やはり日々の中でもそれなりに息づいてくる。
そうすると、不必要に暗い状態で身動きが取れない苦しさから、次第に解き放たれてくる。


「明るさ」も、それぞれ人に見合った形のものがあるだろう。
確かに私に関しては、信心に裏打ちされた形の「明るさ」だとは思うが、…理解され難い話なのだろうか。


今日は、人に「明るい心」をどうやって持つか、私なりの方法を伝える術が無くて、歯痒い思いをした。
ともすれば、相手が私の言葉を「刃」と受け止めて、私も不必要に傷つきかねない。
「言葉を受け取る方も、受け取り方次第」だと言えば、それにすら傷ついてしまうような相手に、いかにして「明るい心」を持つ術を伝えるべきか。

理解される日を気長に待つほか、手立ては無いだろうかな。

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